19話)
結局は、考えこみすぎて、夕食はとれなかったのだった。
生魚は冷凍庫に入れて、野菜は野菜室に。
今度はそんなに日をあけずに来れるはずだったので、腐る前には作ることが出来る。
真理は河田茉莉にもどるべく、着てきたスーツに腕を通し、宝飾品を身につけた後、入念に化粧した。
髪の毛も、ふたたびフンワリさせてボリュームをもたせると“河田茉莉”が出来上がる。
来た通りにバックを手に持ち、鍵を閉めてマンションを出ると、車のエンジンを始動させた。
河田邸まで車で20分程。
家の門の前にあるインターフォンに声を通すと、あっという間に門が開き、中に入って森のような庭を通ってゆく。
その頃には、女帝“河田茉莉”の顔になっていた。
家に着くと、珍しく歩も家に戻っていたようだが、昼間の事を問い正すことなんてできない。
お互いの存在を無視するような習慣が付いていたからだ。
おまけにマンションの件は、微妙な案件で、迂闊に聞くと大ヤケドをしかねない。
だから茉莉は、行動を起こさなかった。
メイドに簡単な軽食を用意させるように言った後、自分の部屋(元は夫婦の部屋だったが、歩が初夜以来入ってこないので、茉莉の中では自分の部屋になっているのだ。)に入り込んで、ベットの上に寝っ転がる。
ちょっとの間、深呼吸してからスーツを脱いだ。
それを脱衣所のバスケットに放りこむと、バスルームに入ってゆくのだった。
息のつまる河田邸の中で、唯一ホッとできるのが、入浴タイムだったから・・・。
入浴後は、軽く食事を済ませ、後は顔と全身の入念なマッサージをして眠るだけだ。
次の日の午前中は、決まった奥の仕事に顔を出して軽く昼食を済ませると、メイドに夕食はいらない旨を調理場に伝えるよう命じた。
それから車に乗り込んで、執事に見送られて門を出ると、歩はひょっとしてもうマンションの前で待っているんじゃないかとふいに思う。
詳しい待ち合わせの時間を決めていなかった事を思い出して、とてもヒヤヒヤした。
けれどもマンションの前には、歩の車は停まっていない。
本来、河田の次期当主として、分刻みな仕事をこなしている人なのである。
真理一人に時間をとること自体、難しい事のはずだった。
歩の車がない事にホッとした茉莉は、隠れるようにして中の部屋に入ってゆく。
慌てて服を着替えて、昨日着た服を洗濯機に入れて回した。
“こっこ遊び”の中で、唯一困ることがあるのが洗濯物の始末だ。
不定期にこのマンションに訪れた時に来る服は、帰る間際に着替えるために、その日は洗濯機を回せない。
河田邸に持って帰るなんて、あり得ない話だった。次に来た時に、以前着ていた服を洗濯するしかないのである。
不衛生だが、下着まで取り替えないので、なんとかこれでしのげているのだった。
洗濯機が回るのを確認してから、洗面台で化粧を落とす。
髪は昨日と同じ。一くくりにして、伊達眼鏡をかけた。
真理になってから、ベランダに出た。下を見降ろして・・・。
歩の車はないようだった。
彼に号数を教えてしまっていたので、この部屋の前まで来るかもしれない。
「あぁ・・落ち着かないわ・・。」
居間の中をグルグル・・。
回ってしばらくすると、ピンポーン。とインターフォンが鳴った。
慌てて廊下を走り、扉を開けると歩だった。
いきなりドアが開いたから、少しビックリしたのか、少し後ずさって、
「まずは誰が来たのか、確認しないといけないよ。泥棒だったらどうするんだい。」
目を眇めて言ってくるのを、
「ここには誰もこないもの。」
と言い返すと、
「事が起こってからでは遅すぎる。」
一刀両断された。
「用意は?出来ているの?」
続いて問いかけられて、真理はコクンとうなずいた。
さすがに今日はGパンではない。まだ夏には早いと思ったものの、無地のサマーセーターに、ロングスカート。
平凡なのが真理なのだ。
歩はチラリと真理の姿を確認して、満足げな笑顔を向けると、
「じゃあ、出かけようか。」
言って手を差し出してくる。
その手を握ろうとして・・。
「ごめんなさい。鍵を持ってくるから。」
自然に出た言葉だった。
軽く歩が目を見開くのが、視界の隅に映った。
真理なら自然に謝ることだってできるのだ。